道長の子孫繁栄に「終止符」を打った後朱雀天皇
紫式部と藤原道長をめぐる人々㊽
■尊仁親王の扱いをめぐり今際の際に関白・藤原頼通と対立
後朱雀(ごすざく)天皇は1009(寛弘6)年に一条天皇の第三皇子として生まれた。母は藤原道長の長女である藤原彰子(しょうし/あきこ)。1歳年上の後一条天皇は、同じ母を持つ兄に当たる。
1017(寛仁元)年に三条天皇の第一皇子である敦明(あつあきら)親王が辞退を申し出たため、兄・後一条天皇の皇太子となった。2年後に11歳で元服している。
道長の六女である藤原嬉子が入内したのは1021(寛仁5)年のこと。2人の間には親仁親王(ちかひとしんのう/のちの後冷泉天皇)が生まれている。しかし、嬉子は出産直後に急逝。その後、三条天皇の皇女である禎子(ていし)内親王が入内し、尊仁親王を出産している。
その後、後一条天皇が皇子のないまま崩御すると、1036(長元9)年に皇位を継いだ。後一条天皇が8歳という幼年のうちに即位したのに対し、後朱雀天皇が皇位に就いたのは27歳の時だった。
後朱雀天皇が即位した当時、権力の頂点に君臨していた祖父の道長はすでに亡く、その嫡男である関白・藤原頼通が朝廷内の実権を掌握していた。同じく道長の三男である藤原教通が内大臣、また、藤原実資が右大臣として辣腕を振るっており、実質的な政治面は彼ら3人を中心に動いていた。そのため、後朱雀天皇が自ら政治に携わる機会はほとんどなかったという。
道長が積極的に進めてきたのにならい、天皇の外戚という地位を手に入れるべく頼通が養女を、道長の次男である頼宗や教通(のりみち)が娘を入内させたものの、後朱雀天皇の子として男児が誕生することはなかった。つまり、親仁親王が即位した際の後継には、三条天皇の皇統である尊仁(たかひと)親王が継がざるを得ない状況となっていた。
外戚という強大な権力を失うことへの、焦燥感に駆られた頼通らは、禎子内親王や尊仁親王をことさら冷遇したと伝わっている。どうやら、禎子内親王や尊仁親王は思うように内裏に出入りすることすらできないことがしばしばだったらしい。
1045(寛徳2)年正月に、後朱雀天皇は退位。在位期間は9年だった。これを受け、親仁親王が後冷泉(ごれいぜい)天皇として即位した。
後朱雀天皇は同年の崩御のわずか2日前に、尊仁親王を後冷泉天皇の皇太子とする詔を発している。どうやらその裏には、尊仁親王の後見役を務めていた、道長の四男である藤原能信(よしのぶ)の存在があったらしい。能信は尊仁親王を次の皇太子とすることを懇願し、それを後朱雀天皇が受け入れた形だったようだ。頼通らはこぞって反対したが、後朱雀天皇が決定を覆すことはなかった。
皇太子に道長家ではない、すなわち一条天皇の皇統ではない尊仁親王を指名したことで、長らく続いた道長家の栄華に大きな影を落とすこととなった。
1068(治歴4)年に尊仁親王は後三条天皇として即位。天皇自らが政治を行なう親政を積極的に推し進め、その後、1073(延久4)年に即位した白河天皇の治世となると、上皇が天皇を上回る権力を握る院政が開始された。こうして藤原氏による摂関政治は終わりを迎えたのだった。
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